歴代の「日本酒の日コンサート」のポスターと登紀子ブランド酒が並ぶベルディーホール内の展示スペースで取材に応じる加藤登紀子さん
2021年(令和3年)10月3日(日)。多可町文化会館ベルディーホールにて『加藤登紀子 日本酒の日コンサート〜ファイナル〜』が開催された。
1993年(平成5年)に誕生してから約30年に渡り計28回を数えた「日本酒の日コンサート」は、10月1日「日本酒の日」に酒米の最高峰と謳われる「山田錦」発祥の里・兵庫県多可町中区にあるベルディーホールに歌手・加藤登紀子さんを迎え毎年行われてきたもの。
毎回趣向を凝らしたステージに多彩な企画イベントも併せ、合併前の旧中町時代より2005年(平成17年)に多可町となって今日まで、町の誇れる看板コンサートとして親しまれてきた。ファイナル公演は昨年の同時期に予定されていたが、新型コロナ禍によりやむなく延期、2年越しでの開催となった。
前日にはプレイベント『〜時には昔の話を〜』が同ホールにて催された。吉田多可町長らの挨拶に続き新酒の完成を祝う登紀子さんによる杉玉の鋏入れ、そして恒例の新酒命名披露。酒瓶のラベルに記された名前も毎回お馴染み、登紀子さん直筆の書によるもの。
“エアー乾杯”の後はコンサートの立ち上げ時から開催に尽力し様々な関連企画も含めコンサートの歴史を彩ってきた人々が登壇、登紀子さんを囲み懐かしいエピソードを語らいあった。司会進行役を務めたのは元多可町文化会館館長である宮崎和明さん。
『加藤登紀子 日本酒の日コンサート』。物語のそもそもの始まりは旧中町時代の1992年(平成4年)の3月18日。その2年前に産声をあげたばかりのベルディーホールの事業として初めて加藤登紀子さんをこの地に招きコンサートが行われた日に遡る。登紀子さんはその日の出来事をつい昨日のことのように、鮮明に記憶していた。
「コンサート終了後、私はどうしてもこの素晴らしい町で一杯飲みながらご飯を食べたい、そう無理を言ったんですね。奥村さんがじゃあうちでよければ、と言ってくださって。素晴らしい、奇跡のような夜がありました。」
当時、文化会館運営評議委員会の会長を務めていた奥村和恵さんが応じる。「30年、アッという間でしたね。私は主婦でしたからコンサート後バタバタと帰宅し、用意もそこそこに座敷で3時間余りの”酒談義'”をしました。登紀子さんが開口一番、ベルディーホールってお客さんのリズム感もノリもとてもいいわね!、と。この町はホールが出来てみんな喜んでいるし行政も自主事業の助成金に一般会計の2%を当ててくれてるんですとお話しすると、そんな文化度の高いまちだったら、ずっと毎年来たいわね、って仰ってくださったんです。」
大物歌手との、そんな夢のような“ほろ酔い談義”の場を共にしていたのが運営評議委員会の副会長だった小嶋明さん。山田錦発祥の町として、「日本酒の日」に加藤登紀子さんを招いてコンサートを開けたら…毎年年末に『ほろ酔いコンサート』を開催している登紀子さんの存在×山田錦発祥の町×日本酒の日…小嶋明さんの想い描いた構想が実現に向けて動き出した瞬間だった。
その翌日からご本人に熱いラブコールを送り続け、多くの人たちの尽力があって、1年半後に記念すべき第1回『加藤登紀子 日本酒の日コンサート』は開催された。
ホールの座席を全て収納、平土間仕様にして600枚の座布団を敷き詰め、観客が車座になって山田錦発祥の里で新酒の完成を祝い乾杯し、登紀子さんの歌声に酔いしれる。「日本酒の日コンサート」ならではの空間がそこに現出した。
プレイベント「〜時には昔の話を〜」より。「日本酒の日コンサート」に関わってきた人々と登紀子さんのトークセッション
「誕生秘話」に続いては、30年もの歴史の中でコンサートやプレイベントに関わってきた人々が登場。1997年(平成9年)の第5回目から始まった「登紀子の田んぼ」での手植えによる山田錦の田植え。山田錦栽培を担った地元の坂本集落、「登紀子ブランド酒」づくりを一手に引き受けた金沢の酒造会社「福光屋」…お酒にまつわる人生模様が詠み込まれた「日本酒の川柳」の募集は2000年(平成12年)度より。2008年(平成20年)に初お目見えした「男声バックコーラス隊」の結成時の逸話とコーラス隊員の想い出話…懐かしく貴重なエピソードが登紀子さんも絡めて次々と語られてゆく…。
加藤登紀子さんの歌の魅力に相乗させ、その時々のホールの運営評議員がコンサート開催の意味を掘り下げ、アイデアを持ち寄り、町をあげての山田錦の発祥の地の発信を柔軟な発想と洗練された手法で盛り込み、他所にはない文化イベントとして育て上げていった歴史。様々な縁を繋いで「日本酒の日コンサート」は回を重ねる毎に熟成されていった。
かつて「私は山田錦の専属歌手よ。」と語った登紀子さん。「“直感”と言ったら良いでしょうかね、この町の持っている風味は、いったい何なんだろう?というような、香り高いものがあるんです。最初に奥村さんと、やっぱり始めたら10回は続けたいわね、と言ってたのが、やればやるほど深みにはまって。こんな風にひとつの町でコンサートを続けたのは例のないこと。私の歌手生活56年のうち30年間続いたこの想い出を、心から大切にしていきたいと思います。」
プレイベント「〜時には昔の話を〜」の締めくくり。“ドリームボーイズ”と登紀子さんが呼ぶ「男声バックコーラス隊」とともに「〜山田錦に捧げる歌〜乾杯!」を高らかに歌う
いよいよ10月3日、ファイナル・コンサート当日。この日を待ちに待ったファンに、加藤登紀子さんは変わらぬ情感溢れる歌の数々を贈った。
オープニングは「そこには風が吹いていた」。「生きるために。生き抜くために。私はここに、あなたのそばにいます。」そうステージから語りかけた登紀子さん。
「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」…ギターをつま弾きながら味わい深い歌声によって代表曲が次々と披露されてゆく。
「あなたの行く朝」。アフガンの地にその身を捧げ亡くなった旧友中村哲医師との想い出。歌に刻み込まれた詩と人生。「私はあなたのはりつめた眼差しを忘れない いつまでも。」
「島唄」。「登紀子ブランド酒」の第1号は同じく「島唄」と命名された。2017年(平成29年)にはこの歌の作者である宮沢和史さんもゲストとしてベルディーホールにやってきて共演している。生命の息吹を感じさせる歌に感応した客席から手拍子が響く。
この日のゲスト、女優であり歌手としても活動する渡辺えりさんが登場。熱のこもった迫力満点の歌唱と楽しいトークが会場を盛り上げた。「エル・クンバンチェロ」、「サマータイム」、そしてベット・ミドラーの「ローズ」。舞台俳優を目指し山形から上京してきた18、19の頃によく聴いて勇気づけられた一曲…渡辺えりさんはそう想い出を語った。東日本大震災の被災地を訪れた時にも歌ったそうだ。
暫しの休息を挟んで第2部が始まる。
「今日は帰れない」。2013年、NHK BSプレミアムの番組『旅のチカラ』に出演、登紀子さんは東欧ポーランドへこの歌の作者に出逢う旅に出た。第二次世界大戦下、反ナチスのゲリラ活動に参加するため、もう恋人に会えないと死を覚悟したパルチザンの歌という。
「花はどこへ行った」。米国のフォーク歌手ピート・シーガーのオリジナルでキングストン・トリオやピーター・ポール&マリーで知られる反戦歌。マリーネ・ディートリッヒも1962年に仏語と独語両方でカヴァーした。
波瀾万丈のディートリッヒの人生を追想しながら歌う登紀子さん。
そして声優としてヒロイン「マダム・ジーナ」役を演じた宮崎駿監督の映画『紅の豚』の挿入歌「さくらんぼの実る頃」、エディット・ピアフの「愛の讃歌」…哀切と歓びが入り混じり、深々と人生を感じさせる豊穣な歌の世界…。
「百万本のバラ」。モノトーンに真紅の花を設えたドレスが映える。「昔から大好きな歌で、まさか自分の代表曲になるなんて、夢にも想わなかった。これからも歌っていきます。大合唱したいけど…心の中で一緒に歌ってください。」
「時には昔の話を」。『紅の豚』のエンディングソング。困難な時代にも立ち向かい果敢に生きた人々の証し。間奏で客席に向かい微笑んだ登紀子さん。
アンコールは、登紀子さんが親しみを込めて「ドリームボーイズ」と呼ぶ総勢25人の男声バックコーラス隊が加わり、盛大に晴れやかに始まった。
「とっておきのフィナーレです!ちゃんと歌ったから呑むよ!」
昨年来温めていたという新曲「未来への詩」。「♪人は愛を歌う、哀しみの時にも。」「昨年4月にこの歌が出来てその秋に歌えるように練習していたものなんですけど、歌を歌う時は心が広がるというか。良いですね、歌うごとに心がきれいになる。」と登紀子さん。
最後はやっぱり山田錦に捧げるこの歌、『乾杯!』
「町長さん3代に亘り応援していただいて。振り返ってみると、ちょっとすごいわね。この出会いは一生忘れません。」
「登紀子の田んぼ」で自ら収穫した山田錦の稲穂を抱えて再登場した登紀子さん。「とっても重い穂が獲れました。実りの風がいっぱいに吹いています。」
客席はスタンディングオベージョン。
「どうもありがとう!元気でね。元気でね!元気がなくなった時こそ、元気でね。」
鳴り止まない拍手に包まれながら登紀子さんは笑顔で手を振った。
時にはジョークを交え時にはシリアスに、時おり今年のブランド酒「時には昔の話を」を味わいながら艶やかな円熟のステージで魅了した登紀子さん。その笑顔と軽やかな身のこなしからはこれでお終いとは思えない、まだまだ続きがある、そんな余韻を残しながら最後の『加藤登紀子 日本酒の日コンサート』は朗らかに和やかに幕を降ろした。
プレイベントの最後の挨拶で、登紀子さんは次のように語っている。
「この山田錦の里に巡り会って、昔からお酒は大好きだったけれど、お酒づくりは土から始まっているんだという意識を初めて持たせていただいた。食べものもそうですけど、私たちは命そのものを土と農業を営んでいる人からもらっている。このことを皆んなに、日本中に世界中にメッセージとして伝えることが大事だと思います。心を耕してゆく30年だったと思います。心からありがとうございます。だからといって今回でコンサートは終わるだけで、私の中では何も終わらない。気持ちの上ではますます強くつながっていけるようにと願っています。」
小嶋明さんはプレイベント時に配布された冊子に「日本酒の日コンサート誕生秘話」を寄稿した。その締めくくりに記されている文章をここに引用させていただく。
「経済至上風土の町で、ステージ文化を満喫できるホールができたことは、新たな課題に向き合うことでもありました。全国の文化ホールが「空気の器」と揶揄されたあの時代、ベルディーは住民主導で屈指の運営を数値で発信していました。加藤登紀子さんという国際的に活躍する歌手のコンサートを定番化させたホールとして町として高い評価を得ました。あのとき、加藤さんが「年を取って白髪になっても、元気ならギター1本あればコンサートできますから」とも言いました。日本酒の日コンサートは最終章を迎えますが、また違う形でベルディーのステージに立ってほしいものです。」
類まれな『加藤登紀子 日本酒の日コンサート』の物語。
「日本酒で乾杯のまち」多可町の誇れる文化的財産として趣向を凝らし「日本酒の日コンサート」を大切に育んでいった山田錦の里の人々とその想いに熱く応えた加藤登紀子さんの見事なコラボレーション。30年の長きにわたるその稀有な歩み。
人生は続いてゆく。
登紀子さんの歌も。多可町の人々の営みも。そして両者の縁も。

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